十年以上も音沙汰なかった彼女が突然訪ねてきたのには理由があった。
年老い、かねてからの病気も更に悪化し様態も思わしくない、私の父を見舞うためだ。
彼女は、どこかで私の父の近況を聞き知ったのだろう。ほとんど寝たきりとなっているということを。もうそれほど長くはないという話などを。
彼女は私の遠縁で、都会に住んでいた。不遇の子ども時代を、私の父と祖母に助けられたのだという話は、大人になった彼女自身からも聞かされたことがある。(もちろん私は、祖母からその辺りの事情については既に聞いて知っていた。)
彼女は私より一つ年上で、小学校の高学年の頃に我が家にやってきた。
彼女の父親が失踪し、母親が亡くなり(自殺だったと聞いている)、引き取り手のなかった彼女を不憫に思った私の祖母がとりあえず連れてきて、うちで面倒を見たのだとか。
(我が家は父と私と祖母の三人家族だった。母とは死別している。)
そんなわけで、彼女は都会から田舎の、それも(彼女にとっては)よく知らない家に引き取られたのだった。
年齢の近い私が、彼女の良き遊び相手になるだろうと、大人たちは考えたに違いない。しかし、現実はそううまくはいかなかった。よくあることだが。
都会育ち特有のセンスの良さみたいなものが彼女にはあり、持ち物も着る服も、田舎の子どもとはまるで違う。言葉使いも違う。元来お嬢様気質の彼女は、私を遊び相手ではなく、しもべのように扱おうとしたのだった。
おまけに彼女は三歳の頃からピアノを習っていた。私の家には小さなオルガンしかなかったことも不満だったのだろう。なにかにつけて彼女は不平を漏らした。恨めしげに睨みつけたり、ときにはヒステリックに怒りを周囲に(主に私に)ぶちまけた。嘘も平気でついた。
一人で静かに遊ぶのが好きな私と、常に誰かを従えたがる彼女とでは上手くいきようがなかったのだ。
そんな時期が一年ほど。やがて彼女の父親の兄だか弟だか(彼女にとっては叔父にあたる)が、正式に養女に迎えると言ってきた。彼女はまた都会へと帰っていった。
大人になるまでに数度、大人になってからも数度彼女は田舎に顔を見せた。私の祖母と父に会いにきていたのだ。
垢抜けた服装、髪型、メイクは、会う度により一層磨きがかかって、特に美人というのではないが人目を引いてしまったものだ。こんな田舎では。
確か、祖母の葬式にも彼女は顔を出していた。
ああ、そうだ。あの時以来だから、十年どころか二十年近くも彼女には会っていなかったのだ。
彼女も私も、今では五十路を越えてしまっている。それでも、久しぶりに見る彼女の姿は若い。二十歳代の頃からほとんど変わっていないんじゃないだろうか。でも、溌剌とした若々しさとはどこか違って。なんだかその若さに私は痛みと苦味を感じてしまった。
彼女は私に簡単な挨拶をしたあと、真っ直ぐに父が寝ている離れの隠居部屋へと向かった。秋の夕暮れ時。一年でもっとも淋しさを感じる時間帯の、不意の訪問客。
父は、彼女の訪問をたいそう喜んでいる様子で、私は二人にお茶を運んだ後、席をはずした。積もる話もあるだろう。
秋の日暮れは素早く夜をつれてくる。さっき夕焼けが映えていたかと思ったら、あっという間に外は暗くなり始める。私は急いで夕飯の仕度を始めた。
しばらくすると、勝手口のドアをノックする音が聞こえた。離れから彼女が戻ってきたのだ。私はドアを開けて彼女をキッチンに招き入れた。彼女はつかつかと上がりこみ、ダイニングチェアに足を組んで座った。まるで慣れ親しんだ親友の家でくつろぐような素振りで。
確かに、彼女にとって、ここは勝手知ったるかつての住処ではある。たった一年ほどとは言え。
しかし、私はそんな彼女の振る舞いに少なからずうろたえ、戸惑った。
上ずった声にならないよう気をつけながら、ちょっとそこで座っていてくれないかと彼女に言った。父の夕飯の準備が整うまで。
そんなことを言う必要などなかったが、とりあえず何か言わなければという思いと、私自身の気持ちを落ち着けるための一言だった。
なぜそんなにもくつろいだ様子でいられるのだろう。ごく親しい友人同士のような彼女の口調もまた、私を落ち着かなくさせた。
彼女は、調理をする私の背中に向かって話を始めた。ここ近年の自分の周りで起きたこと、病気になって体重が10キロも減ったこと(胃も子宮も摘出手術して、今はないらしい)・・・共通の知人(と言っても私には無関係の、名前ぐらいしか知らない人たち)の噂話。父の話はなかった。彼女は何をしにきたのだろう?少しばかり私はいぶかしむ。
調理を一段落終えて、私は彼女に向かい合って座った。
彼女は高級感ある淡いベージュのワンピースを着て、つややかな黒髪を肩まで垂らし、透き通るような白い肌に紅い紅を差した口元をずっと(ひっきりなしに)動かし続けた。濃紺のバッグについた金色の鎖が鮮明だ。我が家のキッチンにはそぐわない異質な空気が彼女をとりまく。
五十歳代とはとても思えない見かけだ。いや、見かけと実年齢の差の問題ではなく。そうではなくて・・・何なのだろう?・・・この変な感じは・・・。
なんだかそのうちに、私は妙な感覚に襲われ始めた。
彼女が、3D映像のように見えてきたのだ。彼女の声も、肉声には聞こえなくて、ただ録音テープが再生されているだけに思えて仕方なかった。
思わず、私は彼女に手を差し伸べそうになった。私の手は、彼女に触れることなく彼女を貫いてしまうのではないか・・・?そんな思いに駆られたのだ。
私は彼女の話を半分ほども聞いていなかったに違いない。
ただ、彼女のツルツルした白い顔や手の肌を飽くことなく眺めていた。この皮膚は、本当に生きて呼吸をしているのか?・・・
顔面に浮かぶ表情も、どこかで遠隔操作されたものではないのか?・・・
そんな疑惑を持って・・・。
彼女は、私の胸の内など気にとめる様子もなく、小一時間ほどしゃべっていたが
「あ、おじ様のごはんの時間・・・遅くなっちゃったわね。」と壁の丸い時計を見上げた。
そうして、「また来るわ。」と、立ち上がった。
香水だか化粧品だかの匂いを残して、彼女は出ていった。
白いBMWのエンジン音が秋の宵闇に消えていく。
ここまでの話で、私が彼女に対して好意を抱いていないことは、読者にもいくぶんか伝わっているのではないかと思う。そう、私は彼女のことが好きではない。初めて家に来た、あの頃からずっと。
子ども時代に彼女がわがままだったのも、意地悪だったことも、当時の彼女の状況を考えれば仕方がないことだ。「かわいそうな子だから」という祖母の言葉が思い出される。しかし、私はそんな祖母のために我慢をしたのではない。
私は、彼女の我侭ぶりにさんざん振り回され意地悪されても、決して怒らなかったし、父や祖母に告げ口もしなかった。それは、ただ単に、私自身が「誰かを嫌う自分」を許せなかっただけなのだ。「好きではない」と言えても、「嫌い」とは言えない・・・それが私だった。
一緒に暮らした子ども時代(ほんの1年程度)を除いて、私は彼女と親しくしたことはない。なのになぜか、彼女の夢をたまに見る。さすがにしょっちゅうではないが。
たいていは支離滅裂で意味の読み取れないような夢だけれど。
実を言うと、今年の初夢が・・・彼女の夢だった。
夢の中で、彼女はマンションの最上階に住んでいる。私は彼女を訪ねていく。
彼女は白く薄いシルクのドレスを着ている。ネグルジェのように見えなくもない。
夢の中の彼女は既に死んでいて、幽霊の姿でマンションに住んでいる。そして、そのマンションの部屋から外に出られないまま、たった一人で孤独の淵にいる。
幽霊の彼女は、静かに泣く。「寂しい」と繰り返し言いながら、泣き続ける。
私はそんな彼女に何もしてやれない。差し出す私の手は彼女を突き抜けてしまうのだ。
彼女を助けたいとか、力になってあげたいとか、そういう気持ちは不思議と起こらなかった。
ただ、彼女を置いて部屋を出ることへの罪悪感だけがあり、出るに出られない自分にほとほと呆れ、困ってしまう。・・・後味の悪い夢だった。
現実には、彼女は死んでいないし、マンションにも住んでいない。晩婚だったが(子どもは生まれず)、ご主人と二人で一戸建ての豪勢な家に住んでいる(はずだ)。
今日、突然訪ねてきた彼女を見たとき、当然のごとくその夢を思い出した。
ちゃんと生きているじゃないか・・・正夢とかでなくて良かったな・・・とも思った。
しかし・・・
彼女が帰ってから思い起こすと、あれは本当に生身の彼女だったのかどうか疑わしく思えてきた。
もしかしたら幽霊だったかもしれないじゃないか。
あの、3D映像のような、どこまでも本物らしいくせに存在感が希薄の肉体は・・・。
電話をして確かめることもできる。それとなく、彼女を知っていそうな誰かに聞けばいい。
しかし・・・
まさか、でも・・・いや、そんなことはあるまい。
それに・・・と、私は考えた。
もしも、もしも彼女が生きていないとして、今の私に何ができるというのか。
お悔やみになんか行きたくない。知らない間に通夜も葬式も済んでいたのなら、その方がいい。
知らなかった・・・で済むじゃないか。
私は彼女や彼女にまつわる何事にも関わりを持ちたくない。
いや、彼女だけじゃない。
私は誰をも嫌いたくない一方で、誰のことも「嫌い」なのだ。本当は。
そんなことは、とうの昔からわかっていた。ただ認めたくなかっただけだ。
「嫌い」という、先の尖ったナイフは、私の内部から私自身に向かって突き刺さる。
何十年も忘れたふりをしてきた「嫌い」が、鋭利な輪郭をもって私をえぐる。
「嫌い」を閉じ込めたために生まれたおぞましい感情が、切り刻まれていく。
それは、まるで生きながらえるためにだけ増殖を繰り返す「憎悪」そのものだ。
見せ掛けの優しさの裏に、おそらくは誰もがもつ競争心、嫉妬の心、その他醜い情念の数々は
肉体を蝕むだけ蝕んで、それでも譲ろうとはしない。
どんなに滑稽な屁理屈をつけてでも、お前はお前の正当性を立証し守らなければならないのだと。
そうやって「憎悪」は繁殖し、それをナイフが切り刻む。
私は、自分が冷たい人間だということを知っている。人前で優しく大人しくふるまうのは、決して優しい人間だと思われたいためではなく、ただ面倒くさいだけなのだ。トラブルが何より苦手なだけなのだ。父や祖母に対しても例外ではない。我侭は極力抑え、できる限り目立たぬように生きてきたつもりだった。しかし、それは大きな勘違いだったかもしれない。
我侭にならぬよう我慢した者も、我侭し放題に見える者もまた
・・・実は・・・
同じなのだ。本質的には。
哀しいことに、残念なことに、どちらを選んでも同じなのだ。結果は。
そうなる仕組みの中で生きてきたということか。
私は小さくため息をつき、父の部屋に夕飯を運んだ。
ベッド脇の低いテーブルの上に湯飲みが二つ。その内一つは空で、もうひとつには冷えてしまったお茶が入っている。口紅の跡さえなかったから、彼女はお茶に手をつけなかったのだろう。
ベッドで仰向けになったまま、父がかすれた声で言う。
「今日は楽しかった。」
「ああ、久しぶりにお客さんが来たものねえ。」
私はあえて彼女の名前を出さずに応えた。
微かに彼女の匂いが残っている。化粧品だか香水だかの、あの匂いだ。
父は黙ってうなずき、起こしてくれというしぐさで手を前に伸ばした。
私は父を抱き起こす。箸を使うのは難しくなっているが、スプーンやフォークならまだ自分で食べることができる。
「そこのメロン、切ってくれんか。」
えっ?・・・メロン?・・・
「瑠璃子が持ってきてくれた。仏壇の前にあるじゃろう。」
いや、何もない。
「何も置いてないよ。」と、私は部屋中を見回した。
「そんなはずはない。瑠璃子が持ってきてくれた。」
父は少し認知症気味なのだ。言葉どおりにとってはいけない。
それにしても、と私は思う。彼女が何の手土産も持ってこなかったとは・・・。
彼女にしては珍しい・・・というより、全く彼女らしくもない。
「おお、そうか・・・。」と、父は思い出したように言った。
「瑠璃子が来たのはもうだいぶ前じゃ。今日は誰も来んかった。」
「お父さん、今日は瑠璃ちゃん、来たでしょ。」
「いんや、今日は誰も来んかった。」
ああ、認知症がまた進んだなと思う。
こういう時はあまり強く否定をしてはいけない。父の認知している現実が父にとっての現実なのだから。それが時系列を無視してコロコロ変化しようとも。
やはり彼女は来たのだろう。父の証言はアテにならない。痕跡が匂いだけというのも不思議な気がしたが。彼女は手土産どころか、仏壇に線香さえ立てていなかった。
アリエナイ・・・私の脳内で黄色い信号が点滅した。が、私は冷静に、いつものように父に食事をさせて、自室に戻った。
彼女が帰った直後、あれほど私を襲った痛みは、もうどこかに消えうせていた。
私が彼女を嫌おうが、彼女以外の誰を嫌おうが、そんなことはどうでもいいことのように思えていた。
どれだけ他人に隠そうと、自分では知っていたのだから。
私はふと了解した。
彼女が幽霊になって夢に出てきたことや、3D映像のようにしか見えなかったことに自分なりの合点がいった。
私は、子どもの頃に彼女と出会った時から、彼女の亡霊にとり憑かれていたようなものだったのだ。
いや、彼女を通して知った「嫌い」や「憎悪」の情念にとり憑かれていたと言い換えてもいい。
もう気が付いてもいい時期なんじゃないかと、それを示唆していたのではないか。
実際の彼女の存在とは無関係に。はなから無関係だったことを知らせる目的もあって。
今日、本当に彼女が私の家に来たのかどうかはわからない。彼女の実在さえ疑わしい。
しかし、問題はそこではない。
そうだ、私にはそんなことに関わっていられるほどの時間はないのだ。
マンションという白いコンクリートの四角い箱に閉じ込められている幽霊と化した本体。
外部に出たつもりで他者と会っても、その体は3D映像。記録の再生。
私たちは、肉体が消えてしまう前に、気づかねばならない。
生身の肉体だけが知っている本当の自分自身に。