爺さんの声が聞こえる

駅前のベンチに、一人の爺さんが座っていた。

バスを待っているのか。

だとすれば、まだしばらくバスは一台も出ない。

電車は上り下りとも30分に一本。

バスなら山行き海行きがそれぞれ1時間に一本あるだけの

田舎の駅だ。

 

中年の男女の二人組(おそらく夫婦だと思われる)が、

たった今到着したばかりの電車から降りてきて、

タクシー乗り場に向かいかけたものの、何やら思うところあったらしく

二人で頷きあいながらベンチに近づき、老人の前に立った。

 

女が爺さんに問いかける。

「もしや、かけひのお爺ちゃんじゃありません?」

爺さんはゆっくりと夫人を見て破顔一笑、首肯した。

男女は安堵の声を漏らしつつ、ベンチに腰掛けた。

爺さんの横に女、その隣に男。

 

男が言う。

「いやあ、この町も変わりましたなあ。

僕が住んでいた頃・・・と言っても、

子どもの頃と大人になってからでは、もう既に大きく変わってはいましたが。ここ数年でまた変わりました。

帰郷するたびにそれを痛感しますよ。」

 

「ほんと、今じゃ日本中何処へ行っても同じ町みたいになりましたよね。

お店も道路も似たり寄ったりで。」

女も同意する。

 

爺さんは笑みを浮かべながら、声を出した。

「いんや、何も変わっちゃおらん。」

 

え?・・・という風に小首を傾げた二人を横に

爺さんは前を向いたまま目を細めて言った。

 

「駅は昔のままここにある。この道をまっすぐ行けば苔寺じゃ。

元宮さんも、宮が建て替えられても空気は同じ。

東の堺筋の向こうは今でも隣町じゃし、

南に見える鷹山も昔そのままの姿じゃて。」

 

黙って頷く二人をちらと確かめるように見てから

爺さんはまた言った。

 

「ほうれ、西からの風は今も潮の匂いを運んでくるし

北には白妻の連山がそびえておろう。

わしの目には、この町は何も変わっておらんように見えるの。」

 

爺さんは含み笑いをしている。

男女二人は、互いに顔を見合わせ頬を緩ませた。

 

「ああ、やっぱりかけひの爺ちゃんだわ。」

「爺ちゃん、ちっとも変わらんなあ。」

「彼岸に墓参りと思って帰ってきたんだけど

まさかここで、かけひの爺ちゃんに会うとは思ってもみなかったよ。」

「ね、タクシーに乗らなくて良かったでしょ。」

女は嬉しそうに両足をピンと伸ばして空を仰いだ。

 

「僕たち、小さい時から爺ちゃんの話が好きでね。

今思えば、爺ちゃんの話はいつでも

僕たちに当たり前のことを思い出させてくれたなあ。」

 

「気持ちが揺らいでいる時なんかは、特にね。」

「そう、爺ちゃんと話した後は、すっきりと元の自分に戻って

元気になったもんだ。」

 

そこへバスがやってきた。

二人は立ち上がって爺さんに向かった。

「私たち、これに乗るけど、爺ちゃんは?」

「わしは、まだここに座っていなけりゃならん。

迎える客がおるでの。」

 

「息子さんたちが帰ってくるのね。」

 

「いんや、今日は彼岸じゃから、

里帰りの者たちを迎えてやろうと思ってな。

向こうがわしに気付くかどうかは、どうでもよいとして。」

 

爺さんはまた大きく笑った。

 

二人は同時に爺さんに手を差し出して握手を求めた。

皺とシミだらけの痩せた手は、意外にも柔らかく暖かかった。

名残惜しそうに女は、爺さんを振り返りながらバスに乗り込む。

 

「爺ちゃん、元気でね。」

 

「自分がどれだけ変わっても、

変わらんものを思い出すがよいぞ。

変わらんものは、自分の基幹を呼び起こしてくれる。」

 

爺さんの最後の言葉は、二人の耳には届いていない。

正確にいうと、耳に届いたのは

「おお」という爺さんの一声だけだった。

しかし、その「おお」の中に、二人は同時に

言葉を見出したのだった。

 

それは、耳で捉えた声が心に届き、

体の内部を反響させて言葉に編まれたものだった。

 

爺さんの力強い「おお」は、そのクシャクシャの笑顔と共に

二人の内部で反響し続けた。

 

2021/5/9